西安导游词(十五篇)

孙小飞

西安导游词1

尊敬的各位游客:

  大家好!

  欢迎到家来到西安,西安是著名的古城,我将带领大家游览几天,那么首先我们就去秦始皇陵观光。

  始皇陵位于西安市临潼区东约五千米处,它南依骊山,北临渭水,地势险峻,环境优美。陵园规模宏大,陪葬品重多,像一座丰富的地下文物宝库。据史书记载,秦始皇赵政从13岁就开始营建陵园,修剪时间长达38年。工程浩大,气魄宏伟,创历代封建统治者奢侈厚葬之先例。1974年在其东侧发现兵马俑坑,轰动了中国,震惊了世界,是20世纪最伟大的考过发现之一。1978年,法国前总统希拉克参观后说:“世界上有了七大奇迹,秦俑的发现,可以说是八大奇迹了,不看金字塔不算到埃及,不看秦俑不算到中国。”秦始皇兵马俑博物馆是建立在兵马俑坑原址上的遗址型博物馆,于1979年10月开馆。1987年12月联合国教文组织将秦始皇陵及兵马俑坑列入《世界遗产名录》。

  大家在游览时要注意以下几点:

  1、不要大声喧哗。

  2、不要拥挤,要有秩序的参观。

  3、不要乱写乱画,保护文物。

  现在我就带大家一起参观一下吧!

西安导游词2

  来自全国各地的朋友们(或各位漂亮的女士们,帅气的男士们):您们好,欢迎您们来西安旅游,很荣幸认识大家,更荣幸为大家导游,首先,我代表_旅行社热忱地欢迎大家的到来,欢迎大家到我们神奇美丽的西安来做客,我姓X,叫_,大家叫我小X或X导就行。为我们驾车的师傅姓X,X先生行车多年,行车安全交。给他,大家请放心好了。我们的车辆虽然不大,但却容纳五湖四海,因在座的朋友们来自祖国不一样的地方,有道是“有缘千里来相会”既然我们能够从13亿人口中,从960万平方公里的土地上,不一样时刻走到一齐,相聚在楚雄,相聚在这小小的车厢里,这就是缘份!所以我推荐大家都能认识一下,好不好?

  好,从此刻起,我们大家就算认‘识了,相信各位朋友都能十分珍惜人生旅途中这一段同行的缘份,在这天的旅游活动中彼此关照,进一步加深我们之间的友谊。

  想必在座大多数人是第一次来西安,对西安比较陌生,但不要紧,大家尽可一能放松身心,在西安尽情享受旅游的乐趣,因为我和X先生是值得依靠的,我们必须会尽力为大家做好各种服务,因为_这座城市是值得依靠的,必须会使您体会到“宾至如归””在家千日好,出门也不难”的感觉,期望_的好山好水好人,能送给你一份好情绪,期望这份好情绪能伴随您一生一世。

  既然已经熟了,在此给大家提几点要求,想必大家也不会见怪。

  一是因为各位的生活习惯和爱好一不一样,期望有烟瘾的朋友尽量不要在车里拍烟;二是,大家看,我们的城市比较干净,期望大家不要乱扔纸屑果皮,第三因为是一日游,大家都期望在短时光内能够了解楚雄,所以,请大家必须遵守____时光,最后还有一个要求,就是在座的朋友们如果在旅途中有什么困难和特殊要求,请必须不客气地提出来,我们必须尽力帮你解决。

  根据预订的计划,我们这天的旅游线路是这样的。

  我和司机先生将努力工作,使大家在楚雄的旅行成功,祝大家在楚雄身体健康,旅途愉快!

西安导游词3

  华严宗,依《华严经》立名,故称华严宗。又称贤首宗、法界宗、圆明具德宗,发源地为陕西西安华严寺。

  华严主要教理为法界缘起说。宇宙万法、有为无为、色心缘起时,互相依持,相即相入,圆融无碍,如因陀罗网,重重无尽;并用四法界、六相、十玄等法门,来阐明无尽缘起的意义。其理论有四法界、六相、十玄门等。

  华严寺始建于唐贞元十九年(803),现仅存砖塔两座,东为初祖杜顺禅师塔,西为四祖清凉国师塔。四祖法名澄观,于三祖法藏殁后私淑其学,住五台山清凉寺,撰新译《华严经疏》等,后世称之“清凉大师”。

  华严寺位于少陵原半坡,当年李白居高临下,俯瞰樊川,不禁诗兴大发,留下了“南登杜陵上,北望五陵间。秋水明落日,流光灭远山”的绝句。

  华严寺由初建到以后数百年间,无高大殿堂建筑的记载,而只记有凿原为窟,以安置佛像及僧众居住,华严寺可以说是黄土高原上一座典型的窟洞寺院。从塔的记载看,这里曾有华严宗初祖杜顺坐定身骨的墓塔、二祖智俨塔、三祖贤首塔、四祖澄观塔。1930年陕西大旱,朱子桥居士来陕西赈灾,与佛教界人士瞻礼华严寺塔时,见到元代重修碑内有“修塔即降甘露”的文句,便于塔前发愿“重修两塔,祝愿普雨”。不日即天降大雨,朱子桥遂与佛教界人士动工修塔。

  华严寺现存的两座塔中,东边的是杜顺的灵骨塔。杜顺虽是禅师,但又以华严为业,住静终南山,为华严宗初祖。杜顺圆寂时,有两只鸟飞入房中,悲鸣哀切。杜顺尸身一个月后仍肉色不变,一直有异香飘出,后起塔藏葬。现存的杜顺塔呈方形角锥体,共7层,高约21米,为仿木结构楼阁式砖塔。每层叠涩出檐,檐下均砌两层菱角牙子,塔身壁面用砖砌成扁柱、栏额、斗拱、昂等,第三层嵌有“无垢净光宝塔”刻石。

  原西边的塔是华严宗四祖清凉国师澄观的灵骨塔。澄观(737——838年),俗姓夏侯,越州山阴(今浙江绍兴)人,是华严宗实际创始人法藏圆寂后数十年,中兴华严宗的著名思想家和学者。澄观多次奉敕译经撰疏、入殿讲经,深得皇室尊崇,被委任为天下大僧录主持全国佛教。澄观世寿一百零三岁圆寂,历唐玄宗至文宗九朝。澄观弟子很多,圭峰宗密、东都僧睿、海外法宝及寂光号为门下四哲;宗密不仅继承其学说,而且发扬光大,被称为华严五祖。其思想对中唐以后的中国佛教有很大的影响。

西安导游词4

亲爱的游客朋友们:

  大家好!

  欢迎你们来到古城西安,我是你们此次西安之行的导游,我姓__,大家叫我__导好了。今天我们参观的第一个景点就是世界文化遗产之一的秦兵俑。景点位于西安临潼,大约需要四十分钟车程,等到了那里,你就可以看到举世无双的秦兵马俑。

  秦兵马俑其实就是秦兵马俑的陪葬坑。你们知道秦兵马俑的来历吗?原来在以前的朝代,皇帝死后都要活人陪葬,后来到了秦朝,一个大臣对秦皇说:“之前的朝代都是用活人陪葬,这对您不是很妥当,不如让能工巧匠打造一支用泥土做成的您那是南征北战、所向披靡的大军如何?”秦始皇觉得这个想法不错就答应了下来。其实要不是秦始皇当年的这个点头同意,就没有今天这气势雄伟的秦兵马俑。

  好了,我们现在已经到了秦始皇陵园,请大家依次下车。兵马俑规模宏大。已发掘的三个俑坑,总面积近20_平方米,差不多有五十个篮球场那么大,坑内有兵马俑八千个。

  现在我们来到的是一号坑。在三个坑中,一号坑最大,东西长230米,南北宽62米,总面积1426平方米;坑内的兵马俑也最多,有六千多个。一号坑上面,盖起了一个巨大的拱形大厅。我们可以走进大厅在细细游赏,游赏时也要注意安全哦!

  大家请看,那身材魁梧,头戴鹤冠,身披铠甲,手握宝剑,昂首挺胸的就将军俑。那神态自若的样子,一看就知道是久经沙场、重任在肩。还有很多精彩的武士佣、骑兵俑、良马。这些兵马俑一个个神态各异、精彩绝伦,真是看了大饱眼福。

  秦兵马俑,在古今中外的雕塑史上是绝无仅有的。它惟妙惟肖的模拟军阵的排列,形象的展现了中华民族的强大力量和英雄气概。

  亲爱的游客朋友们,时间过得真快,今天的秦兵马俑之旅也就告一段落了,祝大家接下来的旅程愉快!

西安导游词5

  大家好,我是你们的导游,大家可以叫我小王。很荣幸能为大家服务,今天我带大家去参观西安城墙。

  我们现在看到的这座古城堡就是明西安城墙,是明初在唐长安皇城的基础上建筑起来的。它是我们国家中世纪后期历史上最著名的城垣之一,是世界上现存规模最大、最完整的古代军事城堡防御设施。

  西安作为千年古都,历代曾多次修筑城墙。它们多数被历史的尘埃掩埋。我们现在看到的城墙可追溯到隋代。公元1369年,明王朝大将徐达从山西进入陕西,将原来的奉天路改为西安,意为“西方长治久安”。拉开了明在西安修筑城墙的序幕。历时8年修筑完的城墙外形是一座长方形。城墙高15米,顶宽12—14米,底宽16—18米,周长13·9公里。最底层用黄土与石灰、糯米汁拌合而成,干燥之后,异常坚固。

  西安古城墙包括护城河、吊桥、闸楼、箭楼、正楼、角楼、敌楼、女儿墙、垛口等一系列军事设施。好了,现在让我们亲自来感受这座科学、严密、完整的军事防御体系。

  这就是我们今天游览的西安城墙,它是世世代代陕西人的骄傲,是唐代文明的象征。

西安导游词6

  大家好!我姓x,是今天去兵马俑的导游.我很荣幸能为大家服务,希望我们今天过得愉快.现在我们就要出发前去世界遗产之一的秦兵马俑了.兵马俑的规模宏大,目前已发掘了三个俑坑,总面积近20000平方米,坑内有兵马俑8000个左右,是我国著名文化景观,大家跟我一起走进秦朝的岁月,走进今天的旅程!

西安导游词7

  华清池亦名华清宫,以3000年的皇家园林史和6000年的温泉利用史而享誉海内外。尤以周幽王烽火戏诸侯、唐玄宗与杨贵妃的传奇爱情故事和震惊中外的西安事变而广为人关注,成为一所改写中国历史并具有浓厚传奇色彩的著名皇家园林。景区位于西安城东30公里,与世界第八大奇迹--兵马俑博物馆相毗邻。

  华清池分为九龙湖风景区、唐御汤遗址区、西安事变旧址区(环园)、唐梨园文化区、温泉沐浴区、配套服务区等六部分,昔日的皇宫禁苑,天子御汤已成为融风景园林、文物遗址、温泉沐浴于一体,食、住、购、娱、浴配套服务齐备的著名风景旅游胜地。史学家郭沫若先生“华清池水色青苍,此日规模越胜唐”的诗词,恰如其分得概括了华清池的风貌与发展。

  1982年华清池被列入全国第一批重点风景名胜区,同年2月,西安事变旧址五间厅被列为全国第二批重点文物保护单位。1996年,国务院公布唐华清宫遗址为全国第四批重点文物保护单位。1998年,被建设部授予“中国名园”。2000年被评为全国首批AAAAA级旅游景区。

西安导游词8

  哈喽!欢迎大家来到西安,我是你们的小导游刘琳,我和大家初次见面,请大家多多关照,下面我们就前往清华池吧!

  朋友们,我们正在走廊,请大家往前看,那就是黄河母亲,她一身雪白,还抱着不到一岁的孩子,用乳汁哺育这他,这黄河母亲大概有两米多高。我们联想一下我们小时候,妈妈肯定也这么爱你吧!

  黄河母亲大家已经看过了,我们就去对面那座山吧!它叫作鸟山,必须坐缆车去。请大家做好准备,缆车要出发了!请大家往下看,这就是清华池,很美丽吧!

  好了!大家该下缆车了,我们已经到达鸟山了。请大家往里面走,看!那是八哥!多么可爱呀!大家自己看吧!可不要掉队哦!好了!大家应该看完了,我们下山吧!

  look!那是青春泉!听说只要用哪里的泉水洗脸,脸上永远不会有皱纹哦!青春泉的左面是皇上和他的妃子洗澡地方,只要往里面头一两个硬币,就会来年有好运!

  好了!今天的清华池一日游结束了!我也要和大家说再见了!请大家不要忘记今天哦!

西安导游词9

  欢迎大家来到这里,下面我来为大家介绍一下!

  在中国的西北部,美丽的西安市是著名的十三朝古都。有标志性建筑物钟楼、明长城遗址、华清池等等。可最雄伟、最有盛名的还要数大雁塔。

  大雁塔自唐朝以来,由玄奘法师修建,用来存放经书的佛塔。它建在大慈恩寺内,从古至今,保存完好,现在供游人参观、游览,是我国著名的旅游景点,更是著名的古城西安的象征。西安市的市徽中央就印着大雁塔,由此可见,大雁塔是当之无愧的西安的标志。

  雁塔的由来神奇玄秘。相传,在印度摩伽陀国,一个寺庙内的和尚信奉小乘佛教,吃三净食(即雁、鹿、犊肉)。一天,空中飞来一群雁。有位和尚见到群雁,信口说:“今天大家都没有东西吃了,菩萨应该知道我们肚子饿呀!”话音未落,一只雁坠死在这位和尚面前,他惊喜交加,遍告寺内众僧,都认为这是如来佛在教化他们。于是就在雁落之处,以隆重的仪式葬雁建塔,并取名雁塔。玄奘便以这个典故,修建了大雁塔。

  大雁塔最早因财力不足,只是一座五层的建筑,后来因武则天信奉佛教,将它修建到了十层。可不幸的是,五代战乱又降至七层,才有今天的七层青砖塔。塔高64。5米,地面各有一个门洞,造型简洁、气势雄伟,是我国佛教建筑艺术中的.不可多得的杰作。

  从远处望去,你会发现大雁塔略有倾斜,这可是有来头的。过去,西安有过数次的地震,将塔震得像一边微有倾斜,后来,塔下身部分为土质,地下水不均匀,使大雁塔加速了沉降倾斜,现在逐渐收回地下水,使大雁塔“改邪归正”。

  大雁塔是第一批全国重点保护文物,经过一次次整修,这个七层的青砖塔变得坚固结实,大雁塔在日后的文物保护、社会建设中,不减昔日古典的美丽,笼罩这一层迷人、神秘的面纱!吸引着世人探寻佛教文化和古代东方文明。

  黄山在中国唐代以前叫黟山,黟是黑样子,因为山上岩石多青黑青黑的,古人就给它起这样一名字。传说咱们中华族的先祖轩辕黄帝在完成中原统一在业、开创中华文明之后,来到这里采药炼丹,在温泉里洗澡,因而得道仙。

  亲爱的朋友,成吉思汗陵旅游区位于鄂尔多斯市东南部伊金霍洛旗的甘德尔草原上。成吉思汗陵作为一座民族的丰碑,记载着蒙古民族沧桑的历史和灿烂的文化。

  绵山,亦名绵上,后因春秋五霸之晋文公名臣介子推。它地处汾河之阴,距介休市区20公里,跨介休、灵石、沁源三市县境,最高海拔2566。6米,相对高度1000米以上,是太岳山(霍山)向北延伸的一条支脉。

  中国的沿海城市,东面或南面临海居多,北面临海的却很少。烟台恰是北面临海,所以便有了一份独特的海上景观。今天我就来介绍一下烟台的海。

  好花不常开,好景不常在,今日离别后,何日君再来?邓丽君小姐这首《何日君再来》是我们常常唱起的一首歌。但我相信,我们之间友情的花朵会常开,XX地区的美景永远常在,今日离别后,什么时候你会再来?

西安导游词10

  みなさん、こんにちは、今日のガイドです。西安碑林博物館を案内します。

  はい、今みんながいる場所は「石の書庫」という有名な西安碑林博物館です。

  西安碑林石刻芸術博物館に入ると、まず見たのは西安孔廟の旧跡です。太和元気坊、パロマ池、格子星門、戟門などの孔廟建築がここに保存されています。

  碑林博物館は典型的な中国伝統廟式建築群である。その前半部分は孔廟を改築したもので、今でも至るところに孔廟の跡が見られます。昔から孔子廟には南門がなく、礼門儀路の両側に開かれていました。ですから、孔子廟の門は東西に開いています。西門は礼門、東門は儀路と言います。入って行くと、私たちの目に映ります。高くて精巧な太和元気坊は明朝万暦の間に皇族が400両の金を援助して建てたものです。壁の外側には清朝末期の有名な書画家劉暉が書いた「孔廟」という二文字が刻まれています。後で見学して博物館の正門を出ると見えます。

  はい、振り返ってみます。この二つの半円形の池をパテ池といいます。ゼパムは三滴の水と半分の半分です。漢字は象形を重んじ,パテは半池である。孔子は学問が無限であることを提唱しています。学問がいつまでも満ち足りない時は、この池のように、いつまでも丸い形になることはありません。古代においては、ゼパム池の中の橋に入ることができるのは秀才に合格した人だけです。今日は私たち全員が幸運にも秀才になります。

  パブ橋を渡って見たこの門は連星門といい、門の上端には麒麟がある。元代には両戸となり、清代には三つの門となる。各門の門の額には文字が刻まれています。中門の額の本「文廟」、つまり孔子廟、東門の額には「徳配天地」、西門には「道冠古今」が刻まれています。連座星は28星宿の一つで、神話の中で土取りを担当する神です。古代、天子は天子を祭って先に連子星を祭って、門に連子星をつけて、孔子を祭ることをたとえます。過去においては、この三つの門の出入りには厳格な規定があり、祭穴の大典に行くと、中門は主祭員または最高官吏の出入りしかできません。皆さんは遠いところから見学に来ました。もちろんVIPです。だから私達は中門から入りました。

  連座星門を過ぎると、孔廟には控馬杭があることが分かりますが、ここの杭は普段見たものよりずっと大きいです。実は、これは石柱型の華表で、儀衛と祥瑞の役割を果たしています。北京の天安門の前と山東曲阜廟の盤竜華表は最高等級の華表を表しています。西安の碑林の中のこの華表は全部八角形の石柱で、通高445センチ、周長163センチです。

  連門は連星門の北にあり、明代以降何度も建てられた古い建物です。これは古代の孔子廟の陳列兵器用のもので、両側の室は祭穴係が儀規をよく知っていて、衣冠を整えるために設けられています。

  孔子廟の二点は、東西のところをもいいます。正房の向かい側と両側の小さな家を指します。孔子廟の中になくてはならない建物の一つです。孔子の七十二弟子を祭るために設けられました。

  はい、孔子廟の内容についてはここまでにします。今は二つの国宝級の文物を見てください。それらは唐景雲鐘と大夏石馬で、今は戟門内の左右の両側に立っています。

  唐景雲は唐の叡宗景雲に鋳造された二年で、1953年に西安碑林に移り住み、青銅で鋳造され、重さは約6トンです。鐘は三格で、一番上には蒲団があります。鐘の身はそれぞれ精巧で美しい唐草、祥雲、鳳凰、獅子、牛、鶴などの模様と32枚の鐘乳が彫られています。鍾身は正面に唐の叡宗李旦を鋳造して自書の余体銘文292字から作って、李旦書道が世界に残しただけの珍しい筆です。景雲鐘の鐘は耳に快いです。渾厚で高く、毎年大晦日の中央人民放送局の鐘の音は景雲鐘で録音されます。

  左手はもう一つの国宝級の文物で、大夏石馬です。大夏は少数民族の匈奴族が建てた王朝で、大夏王朝はわずか24年で、当時の戦乱のため、大夏国が残した文化財は極めてまれです。だから、今日見た大きな石はもっと貴重に見えます。

  今は遠くのこの巨大な額を見てください。その上に「碑林」という文字が書いてあります。よく見ると、この「碑」の字はすくなくなっています。じゃなぜ少し少なめにしますか?これは誤字ですか?明らかに不可能です。この2つの字は清朝の有名な愛国将校林則徐の手によるものです。「碑」の字が少し足りないという人がいますが、ちょうど彼が当時に官職を失ったことを象徴しています。実は、そうではありません。これは古代の漢字が対称を重んじ、「碑」の字が少なくなったからです。

  みんなの前にそびえ立つこの高くて威厳のある石碑は、「石台孝経」です。「孝経」は孔子の学生が参加して編纂したもので、「事君は事の父の如し」という唐玄宗の李隆基が自らこの碑のために序文を書いて書きました。目的は自分が孝道で天下を治めるということです。この碑の高さは6メートル近くで、碑身、背座、碑の首は35つの巨石からなっています。だから、この碑は天下の気概が高く、「迎客第一碑」とも言われています。

  以下は私に従って碑林の第一陳列室に入ってください。ここに陳列されている「開成石経」は唐文宗の開成二年のために名付けられました。「創成石経」には「春秋左伝」「春秋公羊伝」「春秋」「論語」「爾雅」など12の儒家の経典が含まれています。「開成石経」は114の碑石の両面から構成され、合計228面、650152字である。清代には『孟子』という本の9石を追刻しました。合わせて十三経と呼びます。中国の歴史の上でかつて7回の経籍の石刻を組織したことがあって、この1部だけが保存して最も完備しています。時代も早く、史料的価値も高く、「世界で一番厚い本」と称賛された。唐代の印刷術はまだ発達しています。誤記を避けるために、唐の文宗はそれらを石碑に刻み、校正するように命じました。

  中国古代最大の大作を読んでから、第二の展示室に入って見学します。ここには唐代の有名な書道家の書いた碑石が陳列されています。今みんなが見ているのは「大唐三蔵聖教序碑」です。唐の徳宗建中二年に彫刻されました。西暦1623年に再発見され、清朝の末期に碑林に移しました。「大秦」は中国古代の東ローマ帝国に対する呼称です。景教は、キリスト教の分岐に属し、聶斯脱利派と呼ばれ、「景」は光明、美しいという意味です。碑の頭にはキリスト教のロザリオが刻まれている。この碑石はキリスト教が初期に中国に伝来した様子や教則、教義、そして古代シリアと漢文対照で72の景教僧侶の名前が刻まれています。中国古代とヨーロッパ、中央アジアの友好往来を研究するために貴重な資料を提供しました。顔真卿が書いた「顔氏家廟碑」は顔真卿が72歳の時に父を記念して建てた家廟碑で、顔氏家族の世襲と功業を碑文に記している。文中の「孔門達者七十二人、顔氏有八」という言葉から、私達は顔氏家族の繁栄と栄誉を見ることができます。「多宝塔碑」は顔体初期の代表で、「顔氏家廟碑」は顔体が光り輝きと成熟に及ばない傑作です。唐初の有名な書家、欧陽問が書いた「皇甫誕生碑」と息子、つまり欧陽通が書いた「道因法師碑」もあります。唐代の書道はわが国の書道史上の最高峰時代である。多くの書道家が現れ、まるで百花咲き乱れているかのようだ。

  私達は引き続き前に進みます。碑林の第三展示室に来ました。ここに陳列されている碑石を通して、中国の古代書体の進化について大まかに知ることができます。ここには漢魏から唐宋までの各種書体名碑が陳列されています。その中に篆、隷、行、草など5種類の書体が含まれています。例えば漢代の「曹全碑」、「仙人唐公房碑」、唐代の張旭と懐素草書の「千字文」、唐徽宗の「大観聖作の碑」などです。「曹全碑」は我が国の現存する漢碑の中の漢隷の逸品で、国家級の文物のため、碑石は東漢末期に刻んで、庶民と官吏が東漢霊帝を記念するために、陝西合陽県令曹全で資金を集めて建立したものです。碑文は曹全が軍に従って征戦し、戦功が輝かしいことを記録し、主政の合陽が官清廉であり、幸福をもたらした一方で、碑石にはまだ寄付金の名簿が刻まれている。「曹全碑」の書道は平たく均整がとれていて、清麗で流暢で、自然が優雅で、美しく飛動しています。漢隷中の婉曲な代表だけではなく、漢碑の中の精妙なものです。

  第四展示は主に史料名碑を形成し、これらの碑石は明清の二世代陝西人名の苦難生活と決起反戦の歴史事実を記述し、地理絵画などの資料を保存しています。『集字魁星点斗図』は清の時代に陝西巡査が馬徳昭によって描いたもので、封建社会の科挙試験は五品で士をとって、第一に「魁」になりました。「魁」は北斗七星の中で一番星だったので、古くは学府に多くの大きな星が建てられ、その星を祭っていました。石碑に刻まれたイメージは鬼が足を伸ばして「斗」の字を支えています。一手に筆を持って「斗」の字をまっすぐにつけています。唐宋の時期に皇居の殿堂の前に石板があります。上に竜とアオの模様を彫って、進士が階段の下に立ってランキングを迎えます。また、「鬼字」は儒家が修養した八文字の「正心修身、克己復礼」からなります。儒教という修養基準に従って努力してこそ、出世できるという意味です。

  みなさん、時間の問題で、第五第六展示室は自由に見学できます。今は石刻芸術を紹介します。

  続いてご覧になったこの一群の石は「昭陵六駿」です。昭陵六駿は唐太宗李世民が彼の征戦を記念するために乗った六頭の駿馬で、唐代の有名な画家の閻立本によって設計され、唐貞観年間で10年間完成されました。唐太宗は馬ごとに賛辞を書いていますが、残念なことに「颯露紫」と「毛巻き」は1914年に米国の文物商人に盗まれ、ペンシルベニア大学博物館に現存しています。他の四駿の「特勒PIU」、「青彫刻」、「何が赤を切るか」、「白ひづめ烏」も1918年の夜にブロックに切断されて箱に入れて盗む準備をしていますが、幸いにもブロックされました。だから、この四匹の本物を見ることができました。四駿は千年の風霜雨雪を経て、神と神を兼ね備え、生き生きとしています。それらの身には、歴史の輝きを記録しています。歴史の恥も記録しています。

  陵墓石刻を見学した後、宗教石刻を見に来ました。シルクロードの开通は多くの新しい文化をもたらしました。仏教もシルクロードとともにわが国に伝えられました。中国の伝统文化と融合する长い段阶が始まりました。最後に私達が見たこの彫像は唐代に彫られた老君像で、当時安禄山が玄宗の李隆基特命人に歓心を買うために幽州范陽で漢白玉を一枚ずつ彫刻したものです。これまで中国で一番大きい漢白玉の彫像です。石の台の上で、表情は厳粛でおっとりして、顔は豊かで静かです。土台の三階には、変形した牡丹の花と蓮の花の模様が刻まれています。老君像の形成は支配者の政治目的だけでなく、盛唐時代の壮大な勢いも表しています。

  西安碑林博物館の見学は今回で終わりました。興味があれば他の碑も見学できますが、今日の見学は芸術の啓発、知識の収穫をもたらします。

西安导游词11

  中国明西安府城墙。在陕西省西安市。建于明洪武三年至十一年(1370~1378),在唐长安城的皇城和元代奉元城基本上扩建而成。原为夯土城墙,明隆庆年间(1567~1572)巡抚张祉在夯土城墙外初次包砖。清乾隆年间(1736~1795)陕西巡抚毕沅举办大局限的维修和加固,将包墙增厚,铺设海墁,并增修排水道、宇墙垛口等。城墙周长13。75公里,为中国现存完备、局限最大的城墙。1961年中华人民共和国国务院发布为世界重点文物掩护单元。

  据文献记实,明代建筑的西安城,西墙和南墙都是操作原唐代皇城的城墙而增修加长的,东墙和北墙是扩大新建的。西墙和南墙内均发明有唐代城墙和城门的遗迹。城墙用黄土夯筑而成。明代建筑的城墙用黄土加石灰、细沙并掺麦秸、草渣混淆分层夯筑而成,夯层厚10~12厘米。城墙高12米,底宽16~18米,顶宽12~14米。墙顶均以三层青砖铺设海墁,每隔40~60米处,有一砖砌溜水槽和吐水嘴。城内除四门左侧各有登城马道外,还有6处马道。城墙内沿墙附近筑女墙,外沿墙有垛口5984个。城墙外壁附近有马面98座。马面伸出墙面11米,宽20米,各马面之间相距120米,恰在弓箭和火铳的射程之内。

  城的四角各筑有一个突出城墙的角台(楼),除西南城角台为圆形外,导游实务,其他3个为方形。据掘客得知,这种圆形角台是元代的建制,明代扩建西安城时,因西南角未动而保存下来。城墙每面各辟一门,东名长乐,西名安宁,南名永定,北名安远。门外筑瓮城,门上建楼,门楼有正楼、箭楼、闸楼三重,闸楼及周围城墙已在民国初年拆除,现存正楼、箭楼6座。除南面箭楼下无门洞外(门洞分从瓮城阁下开),其他3门箭楼下各穿门洞。门洞高宽6米,深19。5米。正楼为重楼,面宽七间,进深二间,高36米,三层檐歇山顶,周有回廊,楼下及平座均施斗□,箭楼以青砖为主布局,面宽十一间,进深两间,高33。4米,单檐歇山顶,正面分设四层箭窗,各12孔,总共48孔,阁下各3层,总共9孔。楼的不和有两层房檐,均施斗□,下有檐廊。城外护城河宽20米,深10米。1983年开始对城墙举办全面整修。

西安导游词12

  中华文明的摇篮在黄河流域,而黄河文明的摇篮是在渭河流域,从神话和传说看,出自中国西部的炎帝和黄帝是公认的最早圣王和“人文初祖”。炎帝、黄帝的族居地和陵墓都在西安地区。经考古发掘证实,西安是华夏古文明最重要、最集中的发源地之一。

  这里有数十万年前的蓝田人和大荔人文化,有仰韶文化的典型代表半坡文化。如西安半坡临潼姜寨和宝鸡斗鸡台等地是我国最早的原始农业发祥地,形成了最早的农耕、房屋建筑、织布、制陶等生产技术,甚至还创造了最早的文字。在西安出土文物中有一系列是我国最早文化的实证,如出自半坡的最早的农渔工具、最早的陶窑、最早陶文、最早的土木建筑、出自何家湾的最早的骨雕人头像等等。西安是当之无愧的中华文明摇篮。

  秦中自古帝王州西安是中国历史上建都朝代最多、历史最久的城市,从奴隶制秦于鼎盛的西周,到封建社会达到颠峰状态的唐王朝,先后有西周、秦、西汉、新、东汉[献帝初]、西晋[愍帝]、前赵、前秦、后秦、西魏、北周、隋、唐等13个王朝在这里建都1140年之久。自公元前1057年至公元904年,西安曾长期是古代中国的政治、经济与文化中心。 中国古代政治、经济、文化中心公元前1062年,世居关中盆地的周人把活动中心由盆地西部的周原[今陕西歧山、扶风县一带]移入今西安市西南郊沣河流域,文王在沣河西岸建立丰京,武王继位后于公元前1057年伐灭商,建立西周王朝,在沣河东岸建都镐京,开创了西安地区长期作为中国古代政治、经济、文化中心的历史格局。

  人类起源地西安境内史前文化遗址囊括旧石器时代、新石器时代母系氏族公社、父系氏族公社等人类社会演进各历史阶段的多种类型,构成人类社会进化世上举世罕见层次清晰的完整系列。西安所在的关中地区被称“中华民族摇篮”,不仅是中华民族的重要发祥地,也是整个亚洲重要得人类起源地和史前文化中心之一。

  黄河文化距今约6000—7000年前,黄河中下游地区经历新石器时代母系氏族公社高度发展的仰韶文化时期。距今约4000—5000年前,黄河中下游地区继仰韶文化之后,经历父系氏族公社的龙山文化时期。龙山文化相当于古籍传说的中华民族人文初祖皇帝时代。历史由混沌步入朦胧。丝绸之路西安是“丝绸之路”的起点,在古代中外经济文化交往中具有重要的枢纽和中心位置,汉唐两带尤为突出。佛教文化中心魏晋南北朝时,长安与西方各国通过“丝绸之路”的经济文化交往依然络绎不绝于途。自印度传入的佛教这时逐渐与中国传统伦理、宗教观念相结合,形成中国化的佛教并广泛流传。长安成为中国乃至整个东亚的佛教文化中心。中心东移公元10世纪后,随着长江流域经济发展,中国政治、经济、文化中心东移,西安失去首都地位。但仍是整个西北的政治、经济、文化中心。

  现在在祖国开发大西部的战略下,西安这个沧桑的老人正焕发着青春,以无限坚定的信心奔向未来!

西安导游词13

  各位游客,大家好,现在我们的目的地是——西安碑林博物馆

  西安碑林博物馆,位于西安市三学街孔庙遗址,是我们国家收藏古代碑石墓志时间最早,名碑最多,数量最大的一座艺术宝库,

  孔庙遗址是西安碑林博物馆的重要组成部分,其建置历史可追溯到北宋末年,南门照壁上的“孔庙”两字是由清代书画家刘晖书写的。现在的大门东西开,俗称“礼门”、“义路”。走进博物馆大门内,首先映入眼帘的是一座雕梁画栋的木牌枋,名叫“太和元气坊”。

  西安碑林因碑石丛立如林而得名,它始建于公元1087年,距今已有900多年的历史,被誉为“石质书库”、“书法的故乡”。西安碑林是为保存唐代《石台孝经》、《开成石经》而建,经历代不断的整修充实,集中展出了汉魏至明清的碑石墓志1000多件。

  游客朋友们,碑林博物馆的参观讲解就到这里,谢谢大家的配合,欢迎大家下次再来参观,谢谢大家!

西安导游词14

  各位游客大家好,我是今日的导游,大家能够叫我王导,此刻我们已经走进大厅,到了兵马俑旁。这些兵马俑规模宏大,已挖掘出三个俑坑,总占地面积近20000平方米,差不多有五十个篮球场大,坑内有兵马俑大约八千个。这些在坑里的兵马俑十分整齐的排成了巨大的长方形军阵,霸气十足。就像是秦始皇当年率领的一支南征北战、所向披靡的大军。

  兵马俑的规模不仅仅宏大,并且类型众多,个性鲜明。将军俑身材魁梧,身披铠甲,手握宝剑,昂首挺胸。那神态自若的样貌,一看就是久经沙场。武士俑体型健壮,体型匀称。它们身穿铠甲,手持兵器,整装待发。

  骑士俑上身着短甲,下身着紧口裤,右手执缰绳,右手持弓箭好像随时准备上马冲杀。陶马与真马一般大小,一匹匹体形健壮,肌肉丰满。那跃跃欲试的样貌,好像一声令下,就会撒开四蹄,腾空而起,踏上征程。好了,我就先说到那里吧!此刻到了自由时间,尽情的玩耍吧!

西安导游词15

各位朋友,您们好: